いぶき歯科医院 院長紹介

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院長プロフィール

生年月日 昭和23年2月21日
血液型 O型
趣味 山歩き、スキー、旅行、映画鑑賞
星座 魚座
経歴
1973年
大阪大学歯学部卒
1977年
大阪大学大学院卒歯学博士、口腔外科学専攻
1977年
私立松本歯科大学講師、口腔外科学教室
1979年
米国アイオワ大学医学部耳鼻咽喉科、
顎顔面外科、音声言語学科准助教授
1981年
大阪大学歯学部文部教官助手、口腔外科
1985年
兵庫県尼崎市にて開業
資格等 日本口腔外科学会認定専門医
大阪大学歯科医師臨床研修指導医

いぶき歯科医院院長 伊吹 薫 いぶき歯科医院院長 伊吹 薫

院長よりひとこと

京都市にて出生。 幼稚園から高校卒業まで京都で育つ。

大阪大学に入学し、豊中市玉井町に下宿。京都と大阪の違いに徐々に
気づく。
クラスコンパの幹事をさせられ、阪急東通商店街の銀鍋というところで、
始めて「てっちり」を食べる。
昭和42年頃とはいえ、会費¥500-で全てまかなうことが出来ました。
大阪ってすごいところやなと感じました。何しろ、ビル全てが
お好み焼き屋さんだったのを見て、たまげました。

石橋の待兼山にある教養部へ通う毎日。体育は柔道かサッカーの
どちらかを選択して2年間そればかりしなければなりませんでした。
もちろんサッカーを選びましたが、授業時間中休むことなく走らされました。J-leagueを観ていると、
なるほどサッカーは走らなければ意味の無いスポーツだなと改めて認識しています。

サッカー以外には水泳が必須でした。水泳は50m泳げなければ進級できず、泳げないものは冬休み返上
でスキー合宿への参加が義務付けられていました。当時のプールは浄化設備がなく、底が見えない程
黒い水でした。後に医学部教授になった珍友は、入学当時全く泳げず、平泳ぎのポーズのまま、
黒い水の中に毎回沈んでいったのを、昨日のように覚えています。彼は息継ぎをすることが出来ず、
遂に潜ったまま25mを2回泳いで進級が認められました。

当時、阪大に正門はなく、後に中央環状となった幅5mくらいの砂利道に接して裏門
(門扉も無かったか?)がありました。
体育の授業では何時もこの砂利道を通って、石橋校舎を一周させられました。ワンダーフォーゲル部に
入り、山歩きはこんなにしんどいものかと思いました。合宿では40kgの石ころをキルティングの
ザックに詰め込まれ、水は最小限に飲めという(昔の山家は水を消費しないことが美徳でした)、
今から考えると非生理的なことこの上ない考えでした。中には低血糖で痙攣を起こす者もでて、
救急車のお世話になったこともあります。

教養部では医学部、薬学部、理学部生物学科と歯学部の混成クラスで、どの科目の試験も生物学科の
人が一番良く出来ました。真面目さは抜きん出ていたように思います。下宿の部屋の隣が便所だった
ため、我慢できずに同じ豊中市の桜塚へ転居。
某市の教育長のお宅で、2階建ての離れを一人で借りることが出来ました。広かったため、友達の
たまり場になり(大学紛争中で、暇な学生が多かった)、追い出され、次いで古巣の京都へ。歯学部は
当時、北区中之島にあり、3年生になってからは京阪電車で蹴上から天満橋まで通学する。大学紛争で
8ヶ月間授業が無く、講義実習時間の穴埋めをするために、以降夏休みなしの3年半となりました。
解剖学では本当に全員苦労する。未だに何故、足の裏の血管の走行を訓述する問題が歯学部の試験に
出たのか判らない。生化学は毎週試験のおかげで、何とか一夜漬けで覚えることが出来ました。ただ、
教科書が英語版しかなく、(細菌学も同じ)もっぱら英語の勉強をしていました。薬理学、生理学は
教授が偉すぎて講義では何を話しているのか意味不明で、兎に角、教科書が頼りでした。

しかし、実習は講師や助手の中堅クラスの先生方で、それはそれは厳しく、
何時も縮みあがっていました。
何と言っても圧巻は病理学の講義でした。病理を知れば世界がわかるというような感じで、
超名物教授が戦前から戦後にいたる日本帝国の歴史を解説してくださいました。海軍軍医をされその後
広島のGHQの原爆研究所で研究された方でした。時に、泣きながら、そして怒りながら、若者世代の
堕落を嘆いておられました。基礎医学をみっちり(?)叩き込まれて、臨床系の講義が始まります。
何とか留年もせず比較的優秀な成績(本当です)で卒業し、歯科医師となり、第1口腔外科の大学院に
進学することが出来ました。

続きはおいおい私のブログでお楽しみください。